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煮字疗饥

 
 
 

日志

 
 

李香兰  

2012-04-03 22:53:30|  分类: 资料 |  标签: |举报 |字号 订阅

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1932年,中国商人顾联承投资七十万两白银,购静安寺地营建Paramount Hall,并以谐音取名“百乐门”。1933年开张典礼上,时任国民党政府上海市长的吴铁城亲自出席发表祝词,当时百乐门的常客有张学良、徐志摩;陈香梅与陈纳德的订婚仪式在此举行,卓别林夫妇访问上海时也曾慕名而来。另有百乐门锁具,同名专辑《百乐门》。再见李香兰

  百乐门有很多舞女伴舞,还有客人带自己的朋友或者夫人来跳舞。前面一种一般是资本家老板,他们跟舞女跳舞,费用比较高;后一种一般是工程师医生教授,他们带人来跳舞,门票不贵,相当于现在五十元到一百元钱。

  百乐门一般唱歌的是驻唱歌手。有时歌星们也会来,周璇她们都来过的,客人们有时会让她们唱歌,她们就客串唱几首。我们给她们伴奏,周璇啊、吴莺音啊,还有李香兰,我们都很熟,都是朋友。她们是歌星,那些驻唱的叫歌女。

  40年代,白虹、周璇、姚莉等等红歌星都开过个人演唱会,开得最成功的是李香兰。当时上海是日本人统治,她又是日本人,所以演唱会开得很盛大。长春有个电影厂,以前叫满洲电影厂(满映),她在那里面是主角。这其实是个日本特务机关,她就是文化特务。李香兰当时演了很多歌颂日本皇军的电影,《满洲姑娘》呀等等。晚年她承认自己有错,向中国人民道歉。

  1945年,李香兰来上海演电影《万世师表》,讲的是反抗英国鸦片战争的,她在里面出演一个角色,唱《戒烟歌》、《卖糖歌》,就这样在上海出名了。于是她在上海开了两场独唱音乐会。当时她开演唱会由工部局乐队伴奏,乐队指挥是陈歌辛,他是我的老师,我也跟着去帮忙,就和她认识了,比较相熟。她唱得很好,演唱会场是大光明,全部满座,非常受欢迎。

  我还保存着李香兰演唱会的节目单。2003年,日本《产经新闻》的一个记者,通过各种关系找到我,向我了解当年中国人对日本人的态度,就讲到李香兰,我说我还保存着她的节目单呢,他就拍摄下来,在日本刊登出来。李香兰看到了很感动,就让给她写传记的一个日本作家到上海来找我,问我愿不愿意见她。我说可以,她就来了。我们当时在金茂大厦有个乐队,她就到金茂来找我,我们一起聊天。她还带了个摄影师来,拍她在中国的回忆。我就把这唯一的节目单送给了她,她很高兴,还送给我一个照相机。我们一起拍照留念,见面时我81岁,她83岁。

  她还问我恨不恨日本人,我说你们侵略时当然恨,我恨你们的军阀政治家,不过百姓还是友好的。1944年的时候,日本人也运过几千张铜质母版到日本,也是为了做子弹。但是只做了一小部分,战争就结束了,所以还剩下一部分唱片留在日本。据说这批运往日本的母版中有不少李香兰的歌,所以这次我们整理“上海老歌”的时候,唱片库里李香兰的歌只找到6首,其他的母盘都已经没有了。(摘自王人艺、王人美兄妹加入了“明月社”王人艺之孙王勇之文)《夜来香》是40年代百代唱片公司特邀黎锦光为李香兰谱写的,说起李香兰,也是中国上世纪30、40年代的歌坛、影坛绕不过的人物。李香兰本是日本人,却生于中国长于中国,13岁时认了父亲的中国同学、当时的亲日派沈阳银行总裁李际春为养父,起中文名字李香兰。由于她的艺术天分和特殊出身,当年被日本侵略者操纵策划的伪“满洲电影协会”相中,将她大力包装,作为日本推行“日满亲善”、“五族协和”怀柔政策的“少女歌手”推上舞台。1942年,李香兰到上海发展,拍电影,唱歌,很快红遍全国。《夜来香》、《恨不相逢未嫁時》等歌曲的演唱使之更上一层楼,从而成为与周璇、白光、张露、吴莺齐名的上海滩“五大歌后”之一。

《夜来香》在曲调上参考了中国民间小调,但其中旋律和节奏又采用了欧美风格,谱成了轻快的慢伦巴,因此当时传遍了灯红酒绿的沦陷区,在上海著名的百乐门舞厅,这首歌也盛极一时,据说梁实秋晚年的妻子韩菁菁14岁那年,就是以《卖鞋歌》、《夜来香》、《海燕》三首歌,在3000多名应考者中脱颖而出,成为百乐门“一代歌后”。即使是现在,《夜来香》也与陈歌辛的《玫瑰玫瑰我爱你》一样,是上海老百乐门元老爵士乐队演奏的首选。


倒是唱着《夜来香》而名声大噪的李香兰,回日本后跨入影坛,1958年,与外交官大鹰弘坠入爱河,婚后退出演艺界当起了外交官夫人。1969年,将近50岁的李香兰圆了记者梦,当起了富士电视台的节目主持人,还曾前往越南、柬埔寨、中东等战争前线,采访过阿拉法特、曼德拉等风云人物。1974年,在田中角荣首相的劝说下,频频在电视上出镜的李香兰出马竞选,从此当了18年的参议院议员……一生过得有声有色。
《夜来香》曾被定义为二十世纪四十年代上海流行音乐高峰时期的标志性作品。长期在海外被录制唱片及盒带,版本多达八十个以上,风靡了半个多世纪,而黎锦光本人却没有因此受益。令人唏嘘的是,当年上海滩上最为知名的两个流行歌曲作家陈歌辛、黎锦光,一生经历同样坎坷。陈歌辛解放后在上海电影厂任专业作曲,五七年不幸被错划为“右派”,受迫害而逝世,死时才四十多岁。而黎锦光解放后任上海唱片厂(前身即百代公司)音响师,由于他在解放前曾写过大量的“黄色音乐”,因此全国解放后他“夹着尾巴”战战兢兢地过日子,生活相当清苦。1981年,当年演唱“夜来香”的李香兰,因怀念此曲作者而邀请黎锦光赴日本叙旧,并赠送一架夏普四喇叭手提式录音机以表谢意,黎锦光总算得到一点安慰。1993年,黎锦光病逝于上海,走完了他人生86年坎坷曲折之路。

日本に帰された芳子ですが、このころの彼女は、まだまだしたたかでした。
芳子は生活のためもあって通称、伊東阪ニ(いとうはんに)という相場師をスポンサーにするのです。
伊東阪ニは鈴鹿の生まれで本名を松尾正直といい、伊勢の伊、東京の東から 『伊東』 。東京と大阪の二大都市で相場をはるところから 『ハンニ』 を名乗っていました。34歳の若さで、株相場で当時の300万円、現在の金に換算すると30億円を儲けるような怪物で、国民新聞を買い取り、大宅壮一、市川房江、川端康成、北原白秋、室生犀星、宇野千代等と交流がありました。
これは芳子にとって 『順風』 だったのでしょう。伊東と同棲しながら、芳子は自伝を執筆し婦人公論から出版。10月になるとコロンビアに 『蒙古の歌(川島芳子作詞、杉山長谷雄作曲)』 を録音。同年12月には東海林太郎に 『キャラバンの鈴』 という歌も作詞しています。
翌1937年3月には松本高等女学校の同窓会に招かれて講演を行い、その晩には松本市の公会堂で演説するなど、王家の姫君とは思えないほどの逞しさを発揮していました。
芳子がいつ伊東
阪ニと別れたのかはわかりません。
間もなく伊東は詐欺罪で逮捕され、1948年にも同じく詐欺罪で逮捕されていますがその後の消息は不明です。
芳子の凋落は急速にやってきました。急上昇した人気は、急下降するのも早いものです。
この時点で満州国の摂政だった溥儀は皇帝になっています。世界中から認知されていないとはいえ、形式上は一応国家のカタチはできあがりました。同時にそれは関東軍にとって、プロパガンダの材料としての芳子は、もはや完全に不要になったことを意味します。
満州国は後清、つまり清王朝の再興ではなく、まったく別の国であり、溥儀も皇帝とは名ばかりの存在でした。
内部事情を良く知っている芳子はもちろんのこと、誰の目から見ても満州国は日本の植民地であり、謳い文句だった五族協和、王道楽土は芳子には空しく響くだけでした。一体何のために自分はあんなこと(スパイ)をしたのか???。
芳子は
1937年になると再び中国へ渡り、天津で中華料理店、東興楼を開業しています。この人が料理屋の女将になるのはちょっと想像がつかないですが、彼女の周囲の人???彼女は決して一人ではなく、小間使いも雑用係もいたのです???の生活の面倒をみるためといわれています。
この店で芳子は、
父親に連れられて来た李香蘭こと、山口淑子と知り合いました。
山口はまだデビュー前の女学生でした。
芳子は山口淑子を、名前の発音が同じところから興味を持ち、その後も時々はこの店に呼んで、2人でおしゃべりしたようです。もっとも、このころの芳子は自暴自棄的のすさんだ生活をしていて日本人にも中国人にも評判が悪く、山口淑子は店に出入りしていることを養父の潘淑華に知られ、大目玉をくらっています。
東興楼
の女将になってからも芳子はしばしば天津、九州の間を行き来していましたが、山口淑子はそのあたりの事情を山家本人から聞いたようです。山家は淑子を満映に紹介した人で、淑子とは親しい間柄でした。
「芳子は、日本軍の中国大陸における行動を批判した文書を東条英機、松岡洋右、頭山満ら日本の政界、軍部の大物たちに配り、蒋介石との和平工作を呼びかけているが、その中で多田中将のことを口をきわめて非難している。
中将が芳子を相手にしなくなり、いまやうとんじていることへの私怨もあるが、あの文書には彼女なりの日本軍に対する失望の気持ちもこもっている。いずれにしても中将は、このまま芳子を放置するとますます厄介なことになるので、”処分”することを決断した。そしてその命令がボクのところにきた。」
中略
「彼女は軍をかきまわしすぎたよ。だが、消せと言われても、処刑するにはしのびない。昔から知っている女だし、かりそめにも清朝粛親王の王女、満州皇帝の親族だ。そこでボクが責任を負うかたちで、一時国外退去処分にして日本に送り込んだのだ。いま九州の雲仙で静養しているはずだ。」(季香蘭 私の半生)
早くに夫人を亡くした山家は満映の中国人女優と浮名を流していましたが、はじめのころ芳子は、彼の相手は淑子と勘違いし、李香蘭はボクの初恋の人を奪った、などとふれ回ったこともあったのです。些細なことですが、その意味で淑子も芳子の被害者の一人ではありました。
そんなある日、山口淑子が日本での撮影を終えて中国へ帰るため、博多のホテルに宿泊していることを知った芳子は、淑子に会いに行ってこんな会話をしています。「 」は芳子の話、( )は淑子の心中の思いです。この会話から、芳子の性格の一端を窺い知ることができるような気がします。
「川島の母が少し頭がおかしいので雲仙で静養している。ボクはその看病にきているんだ」 (国外退去命令を受け、雲仙に逼塞している事情を私が知っているとは知らずに、そんな作り話で取りつくろう)
「キミもすっかり人気スターになったなあ。映画川島芳子伝を撮る計画があってね。キミに主人公のボクを演じてもらいたいんだが」 (そんな計画は初耳だった)
「ボクはいま後世に残る国家的な大事業を計画しているんだ。川島芳子が蒋介石と手を握る。笹川良一と新しい政治団体を作った。松岡洋右や頭山満も協力してくれる。キミも入会したまえ」 (私は多忙を理由に断った)  (季香蘭 私の半生)
潘淑華に怒られて以来、淑子は芳子を避けていたようで、こんなところで会うのは迷惑なことでした。
しかし、その夜。寝ていた山口淑子は誰かが部屋に入ってきたことに気づき目が覚めて、枕もとを見ると芳子からの手紙が置いてあったのです。
ヨコちゃん、久しぶりにあえて嬉しかったよ。キミと会うのもこれが最後かもしれん。
振り返ってみるとボクの人生は何だったのだろう。人間は世間でもてはやされているうちがハナだぞ。利用しようとする奴がやたらとむらがってくる。そんな連中に引きずられてはいかん。キミ自身が本当にやりたいことをやりなさい。
人に利用されてカスのように捨てられた人間の良い例がここにある。ボクをよく見ろよ。現在のボクは茫漠とした広野に日が沈むのを見詰めている心境だ。ボクは孤独だよ。ひとりでどこへ歩いていけばいいんだい。(李香蘭 私の半生)
芳子は普段からキザで、人前ではやたら恰好をつけたがるところや、わざとらしいウソでその場を取りつくろう癖があったようで、国外退去処分になったことや、今の自分のどうしようもない状況など、手紙でなくては言えなかったのでしょう。
芳子にとって山口淑子はなぜか気にかかる存在だったようで、こんなに自分の胸のうちを正直に告白したのは珍しいことだったでしょう。これを読んだ山口淑子は、こんなに人間くさい川島さんを見たのははじめてだった、と述べています。
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