注册 登录  
 加关注
   显示下一条  |  关闭
温馨提示!由于新浪微博认证机制调整,您的新浪微博帐号绑定已过期,请重新绑定!立即重新绑定新浪微博》  |  关闭

煮字疗饥

 
 
 

日志

 
 

象征派诗人金子光晴  

2012-03-11 13:38:58|  分类: 资料 |  标签: |举报 |字号 订阅

  下载LOFTER 我的照片书  |

 金子光晴,1895年出生于日本爱知县。1912年4月入早稻田大学高等预科文科,1915年2月退学。4月考入东京美术学校日本画科,8月退学。9月入庆应大学文学部预科,不久又因病退学。1919年出版处女诗集《赤土之家》。1923年,因刊行诗集《金龟子》而声名大振,成为日本象征派诗人的代表人物。1924年9月与森三千代结婚。

象征派诗人金子光晴 - 柴湿燃 - 煮字疗饥余慶坊(余庆坊):四川北路1906弄

魯迅と親交のあった詩人?金子光晴が2年間住んでいた長屋風建物。当時の様子は彼の著書『どくろ杯』に詳しく書かれている。彼が妻と一緒に住んでいた余慶坊123号は、現在は一般の民家。

  1926年3月,金子光晴和森三千代第一次到上海旅行,滞留了一个月左右。1928年第二次,他们都住在北四川路余庆坊(今四川北路1906弄)。余庆坊建于20世纪初,以“吉庆有余”之意命名。弄内有三层楼房14幢、二层石库门房屋172幢。金子夫妇居住的是有晒台的二层石库门房屋,晒台给他们留下深刻的印象:“晒台上的粗砺的油漆斑驳的墙壁与蔚蓝色的天空之间,其色彩的相交实在令人撩起一阵浪漫的感觉。”“余庆坊的晒台,常常就在这样的白昼,承受着使得自吴淞溯黄浦江而上的粗布做的船帆和红色的巨帆猎猎作响的最上层的气流,将自己的整个面貌展露在世界上。”

  当时内山书店还设在四川北路的魏盛里,由于经常举办文化讲座和文艺漫谈会,吸引了许多中国新文化的活动者。1926年1月,日本唯美派文学作家谷崎润一郎来上海,通过内山完造的介绍,结识了活跃在上海的中国著名作家、诗人、画家。他自己也成为内山书店的常客。晚上,中日两国的文化人经常在店内进行圆桌的会话,素斋料理是内山完造对客人的特别招待。

  金子光晴住宿的余庆坊就在内山书店的对面,谷崎润一郎热情地介绍他与内山完造相识。4月22日下午5时,内山介绍金子光晴与在上海的中日文化人会面。参加聚会的有田汉、画家陈抱一、漫画家丰子恺、教授方光焘、戏剧家欧阳予倩和在上海的谷崎润一郎、杉木勇(高野山的僧人)、获原贞雄(横滨正金银行)、村田孜郎(《大阪每日新闻》支部长)等人。东京美术学校毕业的陈抱一将自家庭院种植的紫藤花作为礼物送给内山完造。内山将紫藤花插满花瓶,放在白布铺设的桌子上,美丽的花朵带来一片春光。

“物干の粗い漆食と青空との关系その接触が实にロマンチックな感を起こさせるものであった。”“余庆坊の物干は当にそうした白い时と,武淞から黄浦江に溯り,破れたこもの帆や朱い巨帆を战かせる最上层の气流を受けながら全体を世界の上に乘上している 。” 





金子 光晴(かねこ みつはる、1895年明治28年)12月25日 - 1975年昭和50年)6月30日)は、愛知県津島市生まれの詩人。本名は安和。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいる。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。




1895年明治28年) 12月25日、愛知県海東郡越治村(現:津島市下切町)の酒商の家に生まれる。父?大鹿和吉、母?里やう。本名は安和、後に保和を名のる。
1897年(明治30年) 父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現:中区錦三丁目)に転居する。土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となる(正式には6歳のとき)。養母の須美は当時16歳。
1900年(明治33年) 養父が京都出張所主任となったため、京都市上京区に転居。
1902年(明治35年) 4月、金子保和の名で銅駝尋常高等小学校尋常科に入学する。
1906年(明治39年) 養父の東京本店転任にともない、一家は銀座の祖父宅に転居する。4月、泰明尋常高等小学校(現:中央区立泰明小学校)高等科に入学。銀座竹川町(現?銀座7丁目)のキリスト教教会で洗礼志願式を受ける。浮世絵師の小林清親に日本画を習う。
1907年(明治40年) 6月、牛込新小川町に転居し、津久戸尋常小学校(現?新宿区立津久戸小学校に転校する。11月、友人と渡米を企てて家出するが、やがて見つかり連れ戻される。この放浪中の不摂生により体調を崩し、翌年3月まで床に臥せる。
1908年(明治41年) 4月、暁星中学校に入学。初年度は成績優秀だった。漢文学に関心を寄せる。
1909年(明治42年) 夏休みに徒歩で房総半島を横断旅行する。老荘思想江戸文学に惹かれ、中学の校風に反発し、成績が悪くなる。
1910年(明治43年/15歳) 200日近く学校を休んだため留年となる。現代文学に関心が向かい、小説家を志望する。
1912年(明治45年/大正元年) 同人誌を発行し、級友に回覧する。
1914年(大正3年) 4月、早稲田大学高等予科文科に入学するが、自然主義文学の空気になじめず、オスカー?ワイルドアルティバーシェフに影響を受ける。
1915年(大正4年) 2月、早稲田大学を中退。4月に東京美術学校(現?東京芸術大学)日本画科に入学するが8月には退学する。翌9月、慶應義塾大学文学部予科に入学。すさんだ生活を送り、この頃のようすを「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と述べている。肺尖カタルにより、3ヵ月ほど休学。丙種で徴兵検査に合格。
1916年(大正5年) 6月、慶應義塾大学を中退。保泉良弼、良親兄弟と知り合い、触発されて詩作をはじめる。ボードレール北原白秋三木露風などの詩を読みふける。7月、石井有二小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)。10月、養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける。
1917年(大正6年) 牛込区赤城元町に転居。岐阜、関西、福江島などへ「目的のない」旅をする。中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)。
1918年(大正7年) ウォルト?ホイットマンエドワード?カーペンターに影響を受ける。鉱山の仕事に着手するが失敗する。川路柳虹に印刷会社を紹介してもらい、自費で詩集『赤土の家』の出版を企画する。12月、養父の友人とともにヨーロッパ遊学に旅立つ。
1919年(大正8年) 1月、金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行。同月末、イギリスリバプールに到着する。その後、ロンドンベルギーブリュッセルを訪ね、ブリュッセルでは同行人と別れ一人で郊外に下宿。親日家であり、日本の工芸品のコレクターであったイヴァン?ルパージュの厚遇を得る。西洋美術に触れ、落ち着いた読書の日々を送る。
1920年(大正9年) ブェルハーレンの詩に強い影響を受ける。5月、ブリュッセルを離れてパリへ。12月、ロンドンで帰国の船に乗る。
1921年(大正10年) 1月、2年余のヨーロッパ旅行から帰国。同人誌『人間』等に詩を発表する。
1922年(大正11年) 詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わる。同人に大山広光佐藤八郎平野威馬雄ら。3月、ベルギーで書きためた詩の推敲に着手(後に『こがね蟲』の題名をつける)。同人誌『人間』『嵐』に詩を発表。
1923年(大正12年) 7月、詩集『こがね蟲』出版記念会を開く。出席者に西条八十吉田一穂石川淳室生犀星福士幸次郎ら。9月、関東大震災に遭い、名古屋の友人の実家に身を寄せる。のちに兵庫の実妹の嫁ぎ先へ。
1924年(大正13年) 1月、東京に戻る。小説家志望の森三千代と知り合い、恋愛関係になる。7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(現:お茶の水女子大学)を退学。室生犀星の仲人により結婚する。
1925年(大正14年) 3月、長男?乾が誕生する。翻訳で生計を立てるが、困窮した生活が続く。3月、『 ブェルハレン詩集』訳(新潮社)。8月、『近代仏蘭西詩集』訳(紅玉堂書店)、モーリス?ルブラン『虎の子』訳(紅玉堂書店、怪盗ルパンシリーズ)を刊行。
1926年(大正15年/昭和元年) 3月、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす。
1927年(昭和2年) 国木田虎雄と上海に行き3ヵ月ほど滞在。この間に三千代が美術評論家の土方定一と恋愛関係に陥る。5月、詩集『鱶沈む』(有明社出版部、森三千代との共著)を刊行。
1928年(昭和3年) 小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる。9月、三千代との関係を打開するため、アジア?ヨーロッパの旅に出発。はじめの3ヵ月ほどは大阪に滞在し、後に長崎から上海に渡る。
1929年(昭和4年) 上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る。のちにシンガポールでも風景小品画展を開き、ジャカルタジャワ島へ旅行。11月、一人分のパリまでの旅費が貯まり、三千代を先に旅立たせる。
1930年(昭和5年) 1月、パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ。のちに金子は「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやった」と当時の生活について述べている。
1931年(昭和6年) パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン?ルパージュのもとへ身を寄せる。日本画の展覧会を開いて旅費を得、三千代を残してシンガポールへ渡る。
1932年(昭和7年) 4ヵ月ほどマレー半島を旅行する。三千代は4月に単身で帰国し、6月には光晴も帰国。実妹の設立した化粧品会社で働き生活費を得る。
1933年(昭和8年) 山之口貘との交友がはじまる。
1935年(昭和10年) 9月、『文藝』に「鮫」を発表。12月には『中央公論』に「灯台」を発表する。日本の社会体制への批判を込めた詩を次第に発表するようになる。喘息の発作で苦しむことが多くなる。
1937年(昭和12年) 12月、三千代と中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出における認識を深くする。8月、詩集『鮫』(人文社)を刊行。
1938年(昭和13年) 1月中旬、中国より帰国。3月、吉祥寺に転居する。
1940年(昭和15年) 10月、『マレー蘭印紀行』(山雅房)を刊行。
1941年(昭和16年) 4月、アンリ?フォコニエ『馬来』を訳(昭和書房)。7月、『エムデン最期の日』訳(昭和書房)を刊行。
1943年(昭和18年) 12月、『マライの健ちゃん』(中村書店)を刊行。
1944年(昭和19年) 4月、長男の乾が徴兵検査を受ける。11月、召集令状が届いた乾を戦地に送らせないため、気管支カタルを病んでいた乾を雨の中に立たせたりして発作を誘発しようとした。その結果、召集を免れる。12月、一家で山梨県山中湖畔に疎開。
1945年(昭和20年) 再度乾に召集令状が届くが、診断書を持って係官と掛け合い、延期させる。
1946年(昭和21年) 3月、疎開先より吉祥寺に戻る。『コスモス』の同人となる。
1948年(昭和23年) 詩人志望の大川内令子と恋愛関係になり、この後三千代との間で、離婚と入籍を繰り返す。4月に詩集『落下傘』(日本未来派発行所)、9月には詩集『蛾』(北斗書院)を刊行。
1949年(昭和24年) 三千代が関節リウマチに罹り、闘病生活を送る。5月に詩集『女たちのエレジー』(創元社)、12月には詩集『鬼の児の唄』(十字屋書店)を刊行。
1950年(昭和25年) 6月、『かえれ湖』(文林社)を刊行。
1951年(昭和26年) 4月に『金子光晴詩集』(創元社)、6月には詩集『アラゴン詩集』訳(創元社)を刊行。
1952年(昭和27年) 5月に詩集『悪の華』(宝文社)、12月には詩集『人間の悲劇』(創元社)を刊行。
1954年(昭和29年) 1月、『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞する。6月、『現代詩の鑑賞』(河出書房)を刊行。
1955年(昭和30年) 7月、三千代とともに札幌医大文芸部主催の会で講演する。1月、詩集『非情』(新潮社)を刊行。
1956年(昭和31年) 5月、詩集『水勢』(東京創元社)を刊行。
1957年(昭和32年) 8月、自伝『詩人』(平凡社)を刊行。
1959年(昭和34年) 10月に『日本人について』(春秋社)、12月には『日本の芸術について』(春秋社)を刊行。
1960年(昭和35年) 7月、書肆ユリイカより『金子光晴全集(全5巻)』第1巻を刊行。
1962年(昭和37年) 7月、『屁のような歌』(思潮社)を刊行。
1963年(昭和38年) 3月より1971年の8月まで、『金子光晴全集』第2~第5巻が昭森社より刊行される。7月に山之口貘が死去した際には葬儀委員長を務める。
1964年(昭和39年) 6月、孫の若葉が生まれる。
1965年(昭和49年) 三千代と3度目の離婚届を提出する。5月に詩集『IL』(勁草書房)、9月には『絶望の精神史』(光文社)を刊行。
1967年(昭和42年) 2月に『日本人の悲劇』(富士書院)、4月に詩集『若葉のうた』(勁草書房)、6月に『定本金子光晴詩集』(筑摩書房)、7月に『ランボオ詩集』(角川書店)を刊行。
1968年(昭和43年) 7月に評論?随筆集『残酷と非情』(川島書店)、10月に詩集『愛情69』(筑摩書房)、12月には『作詩法入門』(久保書店)を刊行。
1969年(昭和44年) 5月、軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヵ月ほど河北病院に入院する。10月に詩集『よごれてゐない一日』(あいなめ会)、12月には『金子光晴文学断想』(冬樹社)を刊行。
1971年(昭和46年) 4月、詩集『桜桃梅李』(虎見書房)、5月、『どくろ杯』(中央公論社)、6月、『新雑事秘辛』(濤書房)、『人非人伝』(大光社)、9月、『風流尸解記』(青娥書房)、『金子光晴全集』第5巻(最終巻)を刊行。
1972年(昭和47年) 3月、『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する。
1973年(昭和48年) 4月、『天邪鬼』(大和書房)を刊行。5月、荻窪シミズ画廊で金子光晴展を開く。7月、京都へ旅行。9月、詩集『花とあきビン』(青娥書房)、『愛と詩のものがたり』(サンリオ出版)。10月、『ねむれ巴里』(中央公論社)を刊行。
1974年(昭和49年) 4月、『人よ、寛かなれ』(青娥書房)、『金子光晴自選詩画集』(五月書房)。7月から雑誌『面白半分』の編集長を半年務める。11月、『西ひがし』(中央公論社)を刊行。
1975年(昭和50年) 1月、『ほりだしもの』(大和書房)。2月より『金子光晴全集』が刊行開始(全15巻、中央公論社、1977年の1月まで)。4月、遺書をしたためる。『金子光晴(日本の詩)』(ぽるぷ出版)。6月30日午前11時30分、気管支喘息による急性心不全により自宅で死去。7月5日、千日谷会堂にて告別式が行われる。
1977年(昭和52年) 6月29日、森三千代が死去。7月に『回想の詩人たち』(冬樹社)、8月『金子光晴下駄ばき対談』(現代書館)、詩集『塵芥』(いんなあとりっぷ社)、『私の詩論』(冬樹社)、9月、『鳥は巣に?六道』(角川書店)。11月、『樹懶』(河出書房新社)、『這えば立て』(大和書房)を刊行。
著作 [編集]

詩集として『落下傘』、『こがね蟲』、『鮫』などがある。 また『マレー蘭印紀行』、『どくろ杯』、『ねむれ巴里』などの自伝がある。

晩年は対談を多くしている。一部が『金子光晴下駄ばき対談』(現代書館 1995年)にある。

一般的に反骨の文化人として知られ、戦争中も反戦の立場を取り息子をわざと病気に近い状態にして兵役を免れさせ国家への不服従を貫く。

戦後は、山川浩京都守護職始末 旧会津藩老臣の手記』(平凡社東洋文庫全2巻)を訳し、『日本人の悲劇』(新書判.レグルス文庫 第三文明社)、『絶望の精神史 体験した「明治百年」の悲惨と残酷』(初版 光文社カッパ?ブックス)を出す事で、明治維新以後の近代化路線へ批判を行っている。

  评论这张
 
阅读(529)| 评论(0)
推荐 转载

历史上的今天

在LOFTER的更多文章

评论

<#--最新日志,群博日志--> <#--推荐日志--> <#--引用记录--> <#--博主推荐--> <#--随机阅读--> <#--首页推荐--> <#--历史上的今天--> <#--被推荐日志--> <#--上一篇,下一篇--> <#-- 热度 --> <#-- 网易新闻广告 --> <#--右边模块结构--> <#--评论模块结构--> <#--引用模块结构--> <#--博主发起的投票-->
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

页脚

网易公司版权所有 ©1997-2017